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横浜地方裁判所 昭和51年(ワ)690号 判決

原告兼亡小池武彦訴訟承継人

小池ふさゑ

原告兼亡小池武彦訴訟承継人

小池勝彦

原告兼亡小池武彦訴訟承継人

小池恒明

右原告ら三名訴訟代理人

猪俣貞夫

被告

小石川誠一

右訴訟代理人

藤井暹

西川紀男

橋本正勝

水沼宏

主文

一  被告は原告兼亡小池武彦訴訟承継人小池ふさえに対し、金一一一八万二五四五円及び内金一〇一八万二五四五円に対する昭和五一年二月一五日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告は原告兼亡小池武彦訴訟承継人小池勝彦及び同小池恒明に対し、それぞれ金一万七五〇〇円及びこれに対する昭和五一年二月一五日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

三  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用はこれを一〇分し、その七を原告らの負担とし、その余を被告の負担とする。

五  この判決は第一、二項に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は

(一) 原告兼亡小池武彦訴訟承継人小池ふさえに対し、金三三〇四万四三五四円及び内金三〇九六万二八五四円に対する昭和五一年二月一五日から支払ずみまで年五分の割合による金員を

(二) 原告兼亡小池武彦訴訟承継人小池勝彦に対し、金四九二万六二五〇円及び内金四四四万円に対する昭和五一年二月一五日から支払ずみまで年五分の割合による金員を

(三) 原告兼亡小池武彦訴訟承継人小池恒明に対し、金二〇二万三二五〇円及び内金一七八万五〇〇〇円に対する昭和五一年二月一五日から支払ずみまで年五分の割合による金員を

それぞれ支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  原告らの請求原因

1  当事者

(一) 原告兼亡小池武彦訴訟承継人小池ふさえ(以下「原告ふさえ」という。)は本件医療事故の被害者であり、亡小池武彦(以下「亡武彦」という。)は原告ふさえの夫、原告兼亡小池武彦訴訟承継人小池勝彦(以下「原告勝彦」という。)及び同小池恒明(以下「原告恒明」という。)はいずれも原告ふさえの子である。

(二) 亡武彦は昭和五八年五月五日死亡し、原告ふさえ、同勝彦、同恒明が相続により亡武彦の権利義務を承継した。

(三) 被告は外科医師で肩書地において小石川外科医院を開業していた。

2  本件医療事故発生の経過

(一) 原告ふさえは、昭和四九年九月三〇日交通事故に遭つて頸椎捻挫、胸椎捻挫及び腰椎捻挫の各傷害を負い、同日から同年一〇月二六日までの間小石川外科医院に入院し、翌二七日からは同医院に通院して被告の治療を受けていたものであるが、同年一二月二〇日右肩及び右側腹部に疼痛を覚えて同医院を訪れた。

(二) そこで、被告は、同日、頸椎捻挫の治療の一環として注射器を用いて原告ふさえの左右両肩に局所注射をした(以下この注射を「本件注射」という。)。

(三) ところが、翌一二月二一日原告ふさえの右肩の本件注射を受けた部位(以下「本件注射部位」ということがある。)が直径1.5センチメートル大に発赤し、原告ふさえは翌二二日には右部位に痛みを感ずるようになり、さらに翌二三日には本件注射部位を中心に右肩全体が腫れ出し、なおいつそうの痛みを感ずるようになつた。

そこで、原告ふさえは、同日午後九時ころ原告勝彦宅の近くにある金ケ谷医院へ行き、同医院の医師から右肩に湿布薬を貼つてもらつた。

しかし、右肩の腫れは一段と勢いを増し、痛みも激しさを加えてきたので、原告ふさえは、翌二四日小石川外科医院に赴いたが、当日は右医院の休診日であつたので被告の診察を受けることができず、やむなく前記金ケ谷医院へ再び行き前同様右肩に湿布薬を貼つてもらつた。その際、原告ふさえは右金ケ谷医院の医師から被告の診察を受けるよう勧められた。

(四) そこで、原告ふさえは、翌一二月二五日小石川外科医院に赴き被告の診察を受け、被告の指示により直ちに同医院に入院することとなつたが、入院時被告から点滴と右肩への湿布とを受けた。

(五)(1) しかし、入院後の翌二六日に至つても、原告ふさえの病状は好転せず、当日は小石川外科医院の勤務医である豊田武人医師(以下「豊田医師」という。)の診察、治療を受け、豊田医師の指示により、本件注射部位を中心に右肩を冷やすべく前日同様点滴と右肩への湿布等の治療を受けたが、原告ふさえの痛みは治まらなかつた。なお、当日被告はゴルフに出かけて留守であつたため、原告ふさえが求めても被告の診察、治療を受けることができなかつた。

(2) 同日の夜になつても右肩の激痛が続いたため、原告ふさえは付添人の竹内恭子(以下「竹内」という。)を通じて看護婦に対し再三再四被告の診察を受けたい旨申し出たが、看護婦からはただ我慢するようにといわれただけでとりあつてもらえなかつた。

(3) 原告ふさえは、右肩に激痛を覚えながらも被告ら医師から適切な処置を施されることなく一二月二七日を迎え、同日午前三時ころには意識朦朧の状態となつた。

(4) 同日午前九時ころ、同医院の看護婦は、原告ふさえの異常(脈搏薄弱、全身の冷感、吐気を伴うショック状態)を発見し、直ちに被告を呼び寄せた。

(5) 被告は、原告ふさえの右異常を確認し、原告勝彦ら近親者に原告ふさえの危篤を連絡する一方、原告ふさえに対し酸素吸入、点滴、輸血(因みに、原告ふさえの血液型はAB型であつたが、この際被告は誤つてA型の血液を原告ふさえに輸血してしまつた。)等の処置を施したが、原告ふさえの危篤状態が続いたため、同医院での治療は困難と判断し、同日午後四時ころ原告ふさえを救急車で横浜市立大学医学部病院(以下「横浜市大病院」という。)に転院させた。

なお、右点滴、輸血の際、原告ふさえは血管確保のため被告から両内肘部の切開を受けた。

(六)(1) 原告ふさえは横浜市大病院第一外科の外来で診察を受けた後直ちに同外科に入院したが、右入院時の診断によると、原告ふさえの症状は脈があまりふれず血圧測定不能で呼吸数が多いというものであり、その病名は右肩蜂窩織炎(フレクモーネ)であつた。

(2) 入院後の昭和五〇年一月六日横浜市大病院における原告ふさえの細菌培養の結果、本件注射部位からブドウ状球菌が発見された。そこで、右第一外科の医師は原告ふさえに対し、多量の抗生物質を投薬し続けたが、原告ふさえの病状は悪化する一方で、右蜂窩織炎は原告ふさえの右側背中部分にまで拡大した。

(3) 同年一月一三日原告ふさえはチアノーゼを呈するようになり、意識が薄れ、血圧も落ち、自力による呼吸も困難な状態になつた。そのため、原告ふさえは同日ICU(intensive care unit集中治療部)に収容され、横浜市大病院第一外科医師による必死の治療が続けられた。その際、原告ふさえは右治療の一環として右医師により気管切開を受けた。

このような医師の献身的な治療の結果、原告ふさえは危篤状態を脱することができ、同年一月二九日ICUから開放された。

(4) 原告ふさえの体内にある細菌培養の結果、同年二月六日大腸菌が確認されたため、原告ふさえは敗血症(sepsis)であると診断された。そこで右敗血症に対する治療として同外科医師により同年二月一〇日ころから同年三月二四日ころまで原告ふさえの右肩から背中、右側腰部にかけて存する壊死筋肉の切除及び筋肉切開による排膿といつた外科的治療が行われた。

(5) その後、原告ふさえは快方に向かい、昭和五〇年五月六日横浜市大病院第一外科を退院した。

(七)(1) 原告ふさえは、退院後昭和五一年二月まで同病院第一外科及び皮膚科に、その後今日に至るまで長野県飯田市にある飯田整形外科医院にそれぞれ通院して医師の治療を受けた。

(2) なお、原告ふさえは、横浜市大病院第一外科において多量の抗生物質を服用するという化学療法を受けた結果、退院前の昭和五〇年四月二日ころから頭髪等の脱毛を経験し、一時は頭髪が完全に脱毛するに至つた。前記皮膚科に通院したのは右脱毛の治療のためである。

3  後遺障害

原告ふさえは、横浜市大病院等における蜂窩織炎ないし敗血症の治療の結果、次のような後遺障害を負うに至つた。

(一) 右肩関節機能障害

原告ふさえの右肩関節における上肢の可動域は自動運動、他動運動とも前挙七〇度、外挙五〇度、後挙三〇度であり、しかも右側頸部から右鎖骨上窩の手術創痕にかけて筋肉が索状化し、そのため、圧痛があるほか頸部の運動時にも激しい疼痛をきたすので、原告ふさえの右肩関節は全く用を廃した状態である。

(二) 女性の外貌の醜状障害

(1) 原告ふさえは治療に際し、気管及び右肩に切開を受けたため、前頸部及び右鎖骨上窩に手術創痕が残り、特に右鎖骨上部位における創痕は七センチメートルにも達している。また右側頸部から右鎖骨上窩の手術創痕にかけて筋肉の索状化が顕著である。

(2) さらに、原告ふさえの右肩甲骨は手術の結果下垂し、前方に回旋している。そのほか、原告ふさえの両側内踝及び両内肘部には切開創痕が残つている。

これらは女性の外貌に著しい醜状を残す障害である。

4  本件後遺障害の原因

原告ふさえは、本件注射部位からブドウ状球菌が侵入し、そのため蜂窩織炎及びそれに基因する敗血症に罹患し、前記のとおり、横浜市大病院において、右敗血症の治療として右肩等の筋肉の切除ないし切開を受け、その結果、前記のごとき後遺障害を負うに至つたものであつて、本件後遺障害の原因は本件注射部位からブドウ状球菌が侵入したことにある。

5  被告の責任

(一) ところで、本件注射部位からブドウ状球菌が侵入したのは、本件注射時において、

(1) 注射器の消毒が不十分であつたこと

(2) 注射液のアンプルカットの際の消毒が不十分であつたこと

(3) 注射前における注射部位の消毒が不十分であつたこと

(4) 注射後における注射部位の消毒が不十分であつたこと

のいずれかの原因に基づくものである。

(二) そして、医師が注射をなすにあたつては、注射部位に細菌が感染しないよう右(1)ないし(4)の消毒を十分になすべき注意義務があるというべきところ、被告は本件注射に際し右義務を怠つた過失により、本件注射部位からブドウ状球菌を侵入させた。

6  損害

(一) 原告ふさえの損害

(1) 労働能力喪失による逸失利益 金一七一五万四五五六円

(2) 慰藉料 金一〇〇〇万円

ア 傷害慰藉料 金二二〇万四〇〇〇円

原告ふさえは、本件医療事故により昭和四九年一二月二五日から昭和五〇年五月六日まで入院し、その後も定期的に通院を続けているが、後遺症が確定した昭和五一年六月八日までをいわゆる傷害慰藉料としてこれを受けるべきものとすると、その額は二二〇万四〇〇〇円が相当である。

イ 後遺障害に伴う慰藉料金五九〇万円

原告ふさえは、本件医療事故により右肩関節の用を廃し、かつその外貌に著しい醜状を残すという後遺障害を負つたものであるが、これらの後遺障害等級は前記のとおり第五級となり、右等級の自賠責保険金額は五九〇万円であるから、原告ふさえはこれに相当する慰藉料の支払いを受けるべきである。

ウ 本件の特殊事情すなわち、被告は原告ふさえを昭和四九年一二月二五日診察したのみで原告ふさえがショック状態に陥つた同月二七日まで同女を放置したこと、被告は同月二六日にはゴルフに打ち興じて勤務医に対し適切な指示をしなかつたこと、被告は同月二六日原告ふさえが激痛を訴え続けたにもかかわらず、ゴルフ疲れから医師として当然なすべき治療を怠つたこと被告は同月二七日原告ふさえが危篤状態となつた際輸血を行つたが、原告ふさえの血液型はAB型であるのに誤つてA型の血液を輸血したこと等の事実を考慮すると、右ア及びイの慰藉料額に相当の加算をなすべきである。

以上によれば、原告ふさえの精神的苦痛を癒やすための慰藉料の額は一〇〇〇万円が相当である。

(3) 治療費 金三七万四六九八円

(4) 入院雑費 金二一万二〇〇〇円

(5) 入院付添費 金四七万五〇〇〇円

(6) 副食費 金一六万円

(7) 交通費、宿泊費 金一〇一万六六〇〇円

(8) 原告ふさえは、相続により後記(二)の亡武彦の蒙つた損害合計三一四万円(交通費一四万円及び慰藉料三〇〇万円)のうち、相続分の二分の一にあたる一五七万円を承継した。

(二) 亡武彦の損害

(1) 交通費 金一四万円

(2) 慰藉料 金三〇〇万円

(三) 原告勝彦の損害

(1) 休業損害 金二六五万五〇〇〇円

(2) 慰藉料 金一〇〇万円

(3) 原告勝彦は、相続により前記(二)の亡武彦の蒙つた損害合計三一四万円のうち、相続分の四分の一にあたる七八万五〇〇〇円を承継した。

(四) 原告恒明の損害

(1) 慰藉料 金一〇〇万円

(2) 原告恒明は、相続により前記(二)の亡武彦の蒙つた損害合計三一四万円のうち、相続分の四分の一にあたる七八万五〇〇〇円を承継した。

(五) 弁護士費用

原告ふさえの負担する弁護士費用は合計二〇八万一五〇〇円(自己の負担額一八九万五〇〇〇円及び亡武彦の負担額の相続分一八万六五〇〇円)、原告勝彦のそれは合計四八万六二五〇円(自己の負担額三九万三〇〇〇円及び亡武彦の負担額の相続分九万三二五〇円)、原告恒明のそれは合計二三万八二五〇円(自己の負担額一四万五〇〇〇円及び亡武彦の負担額の相続分九万三二五〇円)である。

7  結論

よつて、被告に対し、本件不法行為に基づく損害賠償として、原告ふさえは三三〇四万四三五四円、原告勝彦は四九二万六二五〇円、原告恒明は二〇二万三二五〇円の各支払いと原告らの右各損害額から各弁護士費用(亡武彦の負担する弁護士費用を相続した分も含む)を控除した、原告ふさえについては三〇九六万二八五四円、原告勝彦については四四四万円、原告恒明については一七八万五〇〇〇円に対する本件不法行為に基づく損害賠償義務発生後の昭和五一年二月一五日から右各支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の各支払を求める。〈以下、省略〉

理由

一請求原因1の各事実は当事者間に争いがない。

二本件医療事故発生の経過

1  当事者間に争いのない事実

(一)  請求原因2(一)の事実(但し、原告ふさえが昭和四九年一二月二〇日小石川外科医院を訪れた際、右側腹部の疼痛をも訴えたという点を除く。)

(二)  同2(二)の事実

(三)  同2(四)の事実

(四)  同2(五)(1)の事実のうち、原告ふさえが依然として右肩の痛みを訴え続けたこと、昭和四九年一二月二六日は豊田医師が原告ふさえの診察、治療にあたつたこと、及び当日被告がゴルフに出かけたこと

(五)  同2(五)(4)の事実

(六)  同2(五)(5)の事実(但し、原告ふさえの血液型がAB型であるとの点を除く。)

(七)  同2(六)(1)の事実のうち、原告ふさえが横浜市大病院第一外科の外来で診察を受けた後、直ちに同外科に入院したこと

2  〈証拠〉を総合すると、次の事実を認めることができ〈る。〉

(一)  原告ふさえは、昭和四九年九月三〇日交通事故に遭つて頸椎捻挫及び腰椎捻挫等の傷害を負い、同日から同年一〇月二六日まで小石川外科医院に入院し、翌二七日以降は同医院に通院して、被告の治療を受けていたものであるが、同年一二月二〇日同医院を訪れ、被告に対し、両肩の凝り及び疼痛、頭痛、並びに吐き気を訴えた。

(二)  そこで、被告は、同日、頸椎捻挫の治療の一環として注射器を用いて二パーセント塩酸プロカイン2.0CC+コーゼルコートンT・B・A0.5CCの入つた注射液を原告ふさえの左右両肩に注射した。

(三)  ところが、翌一二月二一日本件注射部位(前日被告が原告ふさえの右肩に注射をした箇所)に発赤が現われ、原告ふさえは、翌二二日には右部位に針を刺したような痛みを感じ始めた。

さらに、翌二三日には、本件注射部位を中心に右肩全体が腫れ出し、原告ふさえは同所になおいつそうの痛みを覚えた。

そこで、原告ふさえは、同日午後九時ころ、原告勝彦に伴われて同人の自宅近くにある金ケ谷医院へ行き、同医院の医師から右肩に湿布薬を貼つてもらつた。

翌二四日も原告ふさえは終日右肩に湿布を続けたが、その効果もなく、右肩の腫れと痛みは一向に弱まらなかつた。

(四)(1)  そこで、原告ふさえは、翌一二月二五日小石川外科医院に赴き、被告の診察を受けた。その際の被告の診察によれば、右肩部位の穿刺では膿汗や出血は認められなかつたものの、原告ふさえは右肩の疼痛を訴えており、右肩関節周囲に発赤、腫張があり、三七度一分の発熱が認められた。

そこで、被告は、原告ふさえの右肩の皮膚が炎症している可能性もあると考え、直ちに原告ふさえを同医院に入院させるとともに、原告ふさえに対し、その右肩に氷冷罨法(リバノール湿布し氷で冷やす処置)を施行し、かつ点滴を行つた。

(2)  しかし、入院後の翌二六日に至つても原告ふさえの病状は好転せず、当日は小石川外科医院へ週(木曜日)に一度勤務している豊田医師の診察を受け、同医師の指示により前日同様点滴と右肩への氷冷罨法を施された。なお、当日は被告がゴルフに出かけて不在であつたため、原告ふさえは被告の診察、治療を受けることはできなかつた。

ところで、豊田医師の診察によれば、原告ふさえの症状は、右胸部から背部の皮下組織、筋肉に沿つて炎症が拡がり、体温も三八度前後に上昇している、というものであつた。そこで、豊田医師は、右のような原告ふさえの症状(熱型及び炎症の状態)から蜂窩織炎(フレグモーネ、皮下組織の化膿性炎症)及び敗血症(Sepsis、体内に感染性病巣ができて、それにより病原菌が連続的にあるいは断続的に流血中に流入して、これによつて自覚的あるいは他覚的の病的症状を呈するもの)を疑い同日夕帰宅した被告にその旨報告したところ、被告はカルテ(一二月二六日欄)に敗血症の疑いがある旨記載した。

(3)  原告ふさえは、この日一日中右肩の痛みを付添人の竹内らに訴えていたが、右処置のほかは被告らから特に治療を施されることなく一二月二七日の朝を迎えた。

(4)  二七日午前六時ころ竹内が原告ふさえの脈を計つたところ脈搏が弱かつたので巡回に来た看護婦にその旨伝えたが、看護婦は特別関心を払うことなくそのまま帰宅してしまつた。午前九時ころ竹内が再び脈を計つたときには、脈搏がほとんど触れない状態となつていた。そこで、竹内は急遽看護婦を原告ふさえのもとに呼び寄せたが、看護婦も原告ふさえの異常に気づいて直ちに被告を呼び寄せた。

(5)  被告は、原告ふさえがショック状態に陥つているのを確認し、原告勝彦ら近親者に原告ふさえの危篤を連絡する一方、原告ふさえに対し酸素吸入、点滴、輸血等の処置を施したが、なお危篤状態が続いたため、同医院での治療は困難と判断し、同日午後四時ころ原告ふさえを救急車で横浜市大病院に転院させた。

なお、被告は、原告ふさえがショック状態に陥つているため、点滴注射の針が原告ふさえの両肘部に入らないので、両肘部の正中を切開するという方法により静脈を確保して輸液及び輸血を行つた。

(五)(1)  原告ふさえは横浜市大病院第一外科の外来で診察を受けた後直ちに同外科に入院した。入院時の所見によれば、原告ふさえの症状は脈搏がほとんど触れないショック状態で、右頸部から右肩にかけて発赤、腫張があり、全身に発疹が見られる、というものであり、一応右肩蜂窩織炎と診断された。

(2)  入院後の昭和五〇年一月六日横浜市大病院における原告ふさえの細菌培養の結果、本件注射部位からブドウ状球菌が発見され、原告ふさえが蜂窩織炎に罹患していることは疑いのないところとなつた。

そこで、右第一外科の小泉博義医師(以下「小泉医師」という。)らは、原告ふさえに対し、多量の抗生物質を投薬し続けてその治療にあたつたが、原告ふさえの病状は好転せず、右蜂窩織炎は原告ふさえの右側背中部分にまで拡大した。

(3)  原告ふさえは、同年一月一三日、チアノーゼを呈するようになり、意識が薄れ、血圧も落ち、自力による呼吸も困難な状態となつた。そのため、原告ふさえは、ICUに収容され、小泉医師ら横浜市大病院第一外科医師による必死の治療が続けられた。その際、原告ふさえは右治療の一環として右医師により気管切開を受けた。

このような医師の献身的な治療の結果、原告ふさえは危篤状態を脱することができ同年一月二九日ICUから開放された。

(4)  原告ふさえの体内にある細菌培養の結果、同年二月六日大腸菌が確認されたため、原告ふさえの前記一連の症状は敗血症によるものであると診断された。そこで、右敗血症に対する治療として同第一外科医師により同年二月一〇日ころから翌月三月二四日ころまで原告ふさえの右肩から背中、右側腰部にかけて存する壊死筋肉の切除及び筋肉切開による排膿といつた外科的治療が行われた。

(5)  その後、原告ふさえは快方に向かい、昭和五〇年五月六日横浜市大病院第一外科を退院した。

(六)(1)  原告ふさえは、退院後昭和五一年二月まで同病院第一外科及び皮膚科に、その後長野県飯田市にある飯田整形外科医院にそれぞれ通院して医師の治療を受けた。

(2)  なお、原告ふさえは、横浜市大病院第一外科において多量の抗生物質を服用するという化学療法を受けた結果、退院前の昭和五〇年四月ころから頭髪等の脱毛を経験し、一時は頭髪が完全に脱毛するに至つた。

三後遺障害

〈証拠〉によれば、原告ふさえには次のような後遺障害のあることが認められ〈る。〉

1  右肩関節機能障害

原告ふさえの右肩関節における上肢の可動域は自動運動他動運動とも前挙七〇度、外挙五〇度、後挙三〇度であり、右肩は下垂し、かつ前方に回旋しており、日常生活にも相当程度の支障をきたしている。

2  外貌醜状

原告ふさえの右鎖骨上窩には約七センチメートルに達する創痕があるほか、右側頸部から右鎖骨上窩にかけて筋肉の索状化が顕著であり、また前頸部の下部及び両肘の内側には切開創痕が残つている。

四本件後遺障害の原因

前記二2で認定した事実並びに〈証拠〉によれば、本件注射部位から原告ふさえの体内にブドウ状球菌が侵入し、そのため原告ふさえは右肩蜂窩織炎に罹患し、次いで大腸菌等のグラム陰性桿菌による二次感染として敗血症を併発したため、右敗血症の治療の一環として横浜市大病院等において外科的治療が施され、その結果原告ふさえは前記三のごとき後遺障害を負うに至つたという因果の流れを認めることができ〈る。〉

五被告の責任

(一)  そこで、まず、原告ふさえがいかなる機会にブドウ状球菌に感染したかを考えるに、前記二の2で認定したとおり本件蜂窩織炎ないし敗血症の発生の経緯、特に被告が原告ふさえに対し本件注射をした直後から急に本件注射部位に発赤、腫張が現われ、右肩に激しい痛みを招来したことに鑑みれば、ブドウ状球菌は本件注射の際にその注射部位から原告ふさえの体内に侵入したものと推認するのが合理的である。

この点につき被告は、本件注射後注射痕が閉じる前に、細菌汚染した物体が注射痕に触れてそこから細菌が体内に侵入した可能性があるとするが、本件注射当日原告ふさえが入浴したことを認めるに足る証拠はないのみならず、右注射後に細菌汚染した物体が注射痕に触れてそこから細菌が体内に侵入したことを窺わせる証拠は全くない。

(二)  そして、右のようにブドウ状球菌が本件注射の際に本件注射部位から侵入したとすると、前記二の2で認定した一連の経緯からして、その原因は、原告ら主張のごとく、(1)注射器の消毒が不十分であつたこと、(2)注射液のアンプルカットの際の消毒が不十分であつたこと、(3)注射前における注射部位の消毒が不十分であつたこと、(4)注射後における注射部位の消毒が不十分であつたことのいずれかに基づくものであると推認するに難くない(以下これを「消毒不十分の推認」という。)。

なお、被告は、大気中の落下細菌が注射痕に触れたことによるいわば不可抗力による細菌感染の可能性に言及するが、弁論の全趣旨及び証人豊田武人の証言によれば、理論上右のような不可抗力による細菌感染も皆無とはいえないが、その可能性は極めて低いことが明らかであるから、消毒不十分の推認はこれによつて覆されるものではない。

また、被告は、(1)注射器の消毒について、シンメルブッシュ煮沸滅菌器を用いて注射器を完全消毒したうえ、注射器を完全消毒した容器に収納していた、(2)注射液アンプルカットの際の消毒について、アンプルカット部分を消毒用アルコールで二回消毒し、さらにアンプルカットで傷をつけた部位の粉末を除去して消毒したうえで薬剤を注射器内に採用した、(3)注射前における注射部位の消毒について、注射部位をヨードチンキで消毒したうえこれを消毒用アルコールで拭き取るという方法を二回繰り返した、(4)注射後の処置について、注射部位を完全消毒した後同部位をアルコール綿で止血するまで押えつけた、とそれぞれ主張し、被告本人は右主張に沿う供述をしているが、本件証拠中にはこれを裏づける客観的証拠はなく、しかも、注射前における注射部位の消毒の点に関し、原告ふさえが、「被告は看護婦からアルコールを滲み込ませた親指大の脱脂綿を一つ受取り、その脱脂綿で原告ふさえの注射部位(左右の両肩)を拭き取つただけである。」旨供述している点に鑑みるならば、右被告本人の供述のみから消毒不十分の推認を覆すことはできない。

もつとも、証人豊田武人の証言の中には、被告は本件注射に際し本件注射部位について被告主張のような消毒方法を採つたであろうと述べる部分があるけれども、豊田医師は、被告が原告ふさえに対して本件注射をする場面を目撃していたものではなく、注射部位を消毒するに際して医師のとるべき一般的な方法及び医師としての自己の経験から被告が被告主張のような消毒方法をとつたであろうと推測しているにすぎないのであるから、右証言部分を根拠に被告が本件注射部位について十分な消毒をしたと認めることはできない。

ところで、被告は、同一の機会に原告ふさえの左肩にも注射をしているにもかかわらず、右肩にのみ炎症が生じたことを根拠として、前記(1)ないし(4)のような消毒不十分はありえないと主張するが、被告本人尋問の結果及び証人豊田武人の証言によると、原告ふさえの左肩の注射部位に何の異常も認められなかつたということは、せいぜい注射液自体が汚染されていたものであるということを否定する根拠の一つになりうるにすぎず、前記(1)ないし(4)特に(3)及び(4)の原告ふさえの右肩の注射部位の消毒が完全であつたということまでも裏づけるものではないことが窺えるし、また、そもそも被告の主張は医学上同一の生体に左右同一の刺激を与えれば常に左右同一の反応が生ずるとの前提に依拠するものであるところ、本件全証拠によるもそのような前提を認めるに足りず、いずれにしても右肩にのみ蜂窩織炎ないし敗血症が生じたことを理由として、消毒不十分の推認を覆すことはできないというべきである。

(三)  医師が注射をなすに際しては、注射部位に細菌が感染しないよう注射器、注射部位等について完全な消毒をなすべき注意義務を負うことは自明の理であるところ、先に認定(推認)説示したとおり、被告は、前記(1)ないし(4)のいずれかの消毒を十分に行なうことを怠り、本件細菌感染を惹起したものといわざるをえないから、民法七〇九条等に基づき原告らが蒙つた後記損害を賠償すべき義務がある。

六損害

1  原告ふさえの損害 金一〇一八万二五四五円

(一)  労働能力喪失による逸失利益 金三二五万一一七〇円

(1) 労働能力の喪失率について

前記三の1に認定したとおり、原告ふさえは右肩関節機能障害を蒙つたのであるが、原告ふさえの右肩関節は、その用を廃したものではなくて、日常生活に相当程度の支障を招来する状態となつたのであるから、右障害は未だ等級表第八級六号の「一上肢の三大関節中の一関節の用を廃したもの」に該当するとはいえず、同第一〇級一〇号の「一上肢の三大関節中の一関節の機能に著しい障害を残すもの」に該当するものと認めるのが相当である。

そして、労働基準監督局通牒昭和三二年七月二日基発第五五一号を参考にすれば、原告ふさえの右後遺障害による労働能力喪失率は二七パーセントと認めるのが相当である。

ところで、原告らは、原告ふさえの前記外貌醜状をも逸失利益の算定にあたつて考慮すべきであると主張するが、本件のごとき原告ふさえの外貌醜状が家庭の主婦である原告ふさえの労働能力に影響を及ぼすものとは考え難いから、原告らの右主張は採用することができない。

(2) 原告ふさえの得べかりし年収

〈証拠〉によれば、原告ふさえは家庭の主婦であり、かつ、長野県の龍崎和裁教習所(四年制)を卒業し、本件事故前自宅で和裁の仕事をしていたものであることが認められるから、原告ふさえの得べかりし年収は、昭和四九年賃金センサス第一巻第一表の企業規模計、旧中卒者の女子の平均賃金(賞与額を含む)を基礎として算出するのが合理的でありそれによれば、右年収は一一六万〇一〇〇円である。

ところで、原告らは、原告ふさえの家事労働分を金銭に評価してこれを右金額に加算して原告ふさえの得べかりし年収を算出すべきであると主張するが、家庭の主婦である原告ふさえの得べかりし年収をいつたん女子労働者の平均賃金によつて擬制的に算出した後、再び現実の家事労働分を金銭に評価して右賃金に上乗せするのは、明らかに原告ふさえの家事労働を二重評価することになるから適当ではなく、また、もし原告らの主張が、原告ふさえの和裁によつて得る収入が右女子労働者の平均賃金相当額であり、この中には家庭の主婦としての原告ふさえの家事労働分が評価されていないという趣旨で右家事労働分を上乗せすべきであるという主張であつたとしても、およそ有職主婦の逸失利益の算定にあたつて、給与額のほかに家事労働相当分を斟酌しこれを給与額に加算するのは相当でないというべきであるから、原告らの主張はいずれにしても採用できない。

(3) 就労可能期間

〈証拠〉によれば、原告ふさえは大正一一年一月二四日生まれの女性で本件医療事故発生当時五二歳であつたことが認められるから、原告ふさえの事故後の就労可能年数は一五年と認めるのが相当である。

(4) 中間利息の控除

原告らは、今後少なくとも毎年五パーセントの物価上昇が見込まれ、それに応じて賃金も毎年五パーセントずつ上昇するから、その上昇分を斟酌してライプニッツ係数を算出すべきであると主張し、右主張に沿う証拠を提出するが、年率五パーセント以上の物価上昇が今後も継続し、かつ、それが賃金に反映するということが高度の蓋然性の下に予測されるものということはできないから、原告らの右主張は採用できない。

してみれば、原告ふさえの就労可能期間一五年に対応する年五パーセントの利率によるライプニッツ係数は、通常のとおり、10.3796である。

(5) 以上を前提として後遺障害による原告ふさえの就労可能期間中の逸失利益の原価をライプニッツ式計算法により中間利息を控除して算出すると三二五万一一七〇円となる。

(計算式)

1,160,100×0.27×10.3796

=3,251,170

(二) 慰藉料 金六〇〇万円

(三) 治療費 金三七万二九七五円

(四) 入院雑費 金一三万一〇〇〇円

(五) 入院付添費 金二七万円

(六) 副食費について〈省略〉

(七) 通院交通費 金一二万二四〇〇円

(八) 原告ふさえは相続により後記2の亡武彦の蒙つた損害七万円のうち相続分の二分の一にあたる三万五〇〇〇円を承継した。

2  亡武彦の損害 金七万円

3  亡武彦、原告勝彦及び同恒明の慰藉料について

第三者の不法行為によつて身体を害された者の夫及び子は、そのために被害者が生命を害された場合にも比肩すべき又は右場合に比して著しく劣らない程度の精神上の苦痛を受けたときにかぎり、自己固有の権利として慰藉料を請求できるものと解すべきところ、前記のごとき原告ふさえの後遺障害の程度ではいまだ原告武彦らが自己の権利として慰藉料を請求できる程度の精神上の苦痛を受けたものとは認められないし、また、原告ふさえが小石川外科医院から横浜市大病院に転院した際及び同病院に入院中二週間余りにわたつてICUに入室していた際重篤な症状となり生命の危険に晒されたという事実があつても、そのことから直ちに原告武彦らは原告ふさえの生命を害された場合に比肩するか又は右場合に比して著しく劣らない程度の精神上の苦痛を受けたものということはできない。よつて、亡武彦らの慰藉料請求は認められない。

4  原告勝彦の休業損害について

原告勝彦は、同人が原告ふさえの看病等にあたつたため、その経営するスナックを休業せざるをえず、そのためスナックの営業利益の喪失を余儀なくされたとして、得べかりし営業利益計二六五万五〇〇〇円の賠償を求めるものであるが、本件全証拠を精査しても、本件医療事故と原告勝彦の営業利益の喪失との間に事実上の因果関係があるか否か疑しいと判断せざるを得ないのみならず、仮に右事実的因果関係があるとしても原告勝彦の蒙つた休業損害は本件医療事故により通常生ずべき損害すなわち法律上の相当因果関係にある損害とは認められないこと明らかである。

5  原告勝彦及び同恒明の損害

各金一万七五〇〇円

原告勝彦及び同恒明は相続により前記2の亡武彦の蒙つた損害七万円のうち相続分の四分の一にあたる一万七五〇〇円をそれぞれ承継した。

6  弁護士費用

本件事案の性質、各原告の認容額、その他諸般の事情を考慮すると、本件医療事故による損害として被告に負担させるべき弁護士費用の額は、原告ふさえについては一〇〇万円が相当であり、その余の原告(亡武彦も含む)については弁護士費用を被告に負担させるのは適当でない。〈以下、省略〉

(浅香恒久 佐藤嘉彦 荒木弘之)

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